こどもの日に柏餅を食べる由来と意味!実は昔は超マズかった?!


こどもの日の柏餅の画像
こどもの日(端午の節句)には、鯉のぼりを揚げ、武者人形を飾り、柏餅を食べてお祝いする風習が昔から行われていますよね。

柏餅は主に東京を中心とした東日本では、端午の節句に欠かせない定番菓子となっています。

でも、どうして「こどもの日」に柏餅を食べるようになったのでしょうか?いつ頃からこのような風習が日本で始まったのでしょうか?

今回は「こどもの日」に柏餅を食べるようになった由来と意味について詳しくお伝えしたいと思います。

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こどもの日(端午の節句)に柏餅を食べるようになった由来

柏餅の由来のイラスト
端午の節句に柏餅が登場したのは江戸時代から

5月5日の「こどもの日」は、古くから「端午の節句」とも呼ばれ、男の子の健やかな成長を祝う日です。

柏餅のように木の葉でお菓子を包むという発想は古代からあり、(ちまき)椿餅(つばきもち)は、既に平安時代に存在してたようです。

そして柏餅が「端午の節句」に登場したのは、17世紀頃の江戸の武家社会が始まりといわれています。

武家にとっては家系存続のために跡継ぎを絶やさないことが最も大切であり、家を継ぐのは男子なので、そのため男子の節句である「端午の節句」は、武家で特に尊重されたようです。

柏餅と粽の発祥した年の比較の説明画像
昔の柏餅は、まずかったってホント?

江戸の武家では、「端午の節句」に大量の柏餅を手作りし、それを自家で食べるだけでなく親戚・知人などへ配りました。

驚くことに、柏餅が登場した当初は、甘い(あん)を包んだ餅ではなく塩餡(しおあん)入りの餅で、しかも形も卵形だったようです(参考:古今名物御菓子秘伝抄 1718年)。

塩餡入りの柏餅って、どんな味だったのか興味をひきますよね。

江戸時代中期に土御門泰邦(つちみかどやすくに)という公家が、京都から江戸へ下向したときの記録に、江戸の名物の柏餅を食べた感想が書かれてあります(参考:東行説話)。

江戸の柏餅を酷評した公家のイメージ画像
その公家によると、当時の柏餅はメチャクチャまずかったようで、柏餅を一口食べて胸が悪くなり薬を飲んで、やっと治ったということが書かれてあります。それを読んで、塩餡入りなら「やっぱりそうだろうな~」と思わず私も笑ってしまいました。

この土御門泰邦(つちみかどやすくに)という公家は大のグルメだったそうですが、この公家の口には当時の柏餅は合わなかったようで、江戸の柏餅は馬糞(ばふん)のような味だったと酷評しています。

柏餅が登場した当初は、味よりも端午の節句の縁起物としての要素のほうが強かったのかもしれません。まぁ、中には、しょっぱい柏餅が好きな人もいたかもしれませんしね。

当時は白砂糖が貴重だったため黒砂糖を使うことが多く、大量に柏餅を手作りして小豆などが足りなくなると、味噌で代用(あん)が作られました。

塩餡入りの柏餅は、さほど美味しくなかったせいか?、江戸後期になると、塩餡は甘い(あん)に代わり、そのほかに味噌餡(みそあん)もあり、形も現在と同じような円形扁平な餅となりました。

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江戸時代は葉の表裏で中身の(あん)を区別していた

「江戸にては砂糖入味噌をも(あん)にかへ交る也、赤豆餡には柏葉表を出し、味噌には(うら)を出して(しるし)とす」(出典:守貞謾稿(もりさだまんこう) 嘉永六年/1853年)

江戸時代後期の生活風俗を記した上記の「守貞謾稿(もりさだまんこう)」に、当時の柏餅の様子が記されています。それによると江戸時代には、甘い(あん)味噌餡(みそあん)の区別を、それぞれ柏の葉の表裏で表し、見た目で中身の餡を区別していたようです。

ちなみに、柏の葉の表というのは、手触りがツルツルしているほうで、それに対し柏の葉の裏というのは、少し起毛しているため色が表側より若干白っぽく、ザラザラしており、葉脈(ようみゃく)がくっきり出ているほうです。

現在の柏餅はお店によっても違いはありますが、こし餡、つぶ餡、味噌餡と3種類の柏餅があります。ただ、私の住んでる地域には、味噌餡の柏餅がないので、ぜひ一度味噌餡の柏餅を食べてみたいと思っています。

ピンクや白の柏餅の画像
全国の和菓子屋さん数軒に問い合わせてみたところ、中身の餡の区別の仕方は、お店によっても様々なようです。

現在は、昔と違って葉の表裏で中身の餡を区別しないところもあり、生地の色(白・ピンク・淡黄色・緑)葉の色(緑・茶)によって中身の餡を区別するところも多いようです。

また「守貞漫稿」には、「京阪地方では男子の初節句には親戚・知人に(ちまき)を配り、二年目よりは柏餅を贈る」とあり、それに対して「江戸では初節句より柏餅を贈る」として当時から東西食文化に違いがあったことが記されています。

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江戸で作られる柏餅の量はハンパなく大量!

端午の節句に柏餅を大量に作り、祝儀として配るという武家の風習は、次第に江戸の町人などにも広がっていきます。

「南総里見八犬伝」で有名な江戸後期の読本作家、滝沢馬琴の日記によると、孫の初節句祝いの返礼に、約300個の柏餅を菓子屋に注文し、親族など9軒に贈り、翌年からは毎年自家製で、家人3人で200~300個の柏餅を作ったとあります。

江戸時代には、現代と違って武家や商家では、自家で食べるだけでなく親戚・知人に祝儀として配ったため、柏餅が大量に手作りされていました。

そのため端午の節句が近づくと、柏餅による需要を見込んで、小豆や黒砂糖などが値上がりした様子も、滝沢馬琴の日記に記されています。

柏の木の葉の画像
柏餅の葉は、端午の節句が近づくと農民たちが山に入って柏の葉を集め、それを馬に載せて江戸に運んでいましたが、その馬の数は数百頭にも及んだといいます。

これらの事からも、江戸では端午の節句には、私たちの想像をはるかに超える量の柏餅が作られていたことが分かります。

ちなみに江戸で柏餅が端午の節句に登場し始めた当初は、手作りが主流でしたが、宝暦年代(1751~1764年)には、すでに下谷亀屋などの店で柏餅が売り始められました。

こどもの日(端午の節句)に柏餅を食べる意味

こどもの日に柏餅を食べる子供たちの画像
こどもの日に柏餅を食べる意味については、なぜ江戸の武家で「端午の節句」に柏餅を供えるようになったのかを考えると、その理由が見えてきます。

武家にとって家系存続は最重要課題で、跡継ぎがいなければ家は取り潰しになります。

柏の葉は秋に枯れても、春に新しい芽が出るまで古い葉が落ちないことから、「子孫が途絶えない」縁起のよい木と考えられていました。

そして、柏の木のように「跡継ぎが絶えない」という願いを込めて、男子の成長を祝う端午の節句に、家系存続の象徴として柏の葉を用いた柏餅が作られるようになったようです。

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また、柏の葉は、古代から祭儀などで神にお供えする食べ物を盛る器として使われてきました。古代から植物の葉を食器として使うことは、よくありました。

なかでも柏の葉が、神事の食器として利用されてきたのには、肉厚の葉が食べ物を盛るのに適していることの他に、柏が古代から聖なる木と考えられてきた背景もあります。

神社を参拝するときに柏手(かしわで)を打ちますが、これは柏が神聖な木で、神が宿ると考えられたことから来ている言葉です。

柏手の画像
また、伊勢神宮の神事の中には、柏の葉を流水に流して、浮かんで流れると「吉」、沈んでしまうと「凶」とする「柏の占」があります。江戸時代には、柏の葉を流して、その年の農作物の豊凶を占ったといいます。

以上のことから、「こどもの日」に柏餅を食べるようになったのには、柏の持つ次のような特徴が「端午の節句」に相応しいと考えられたためといわれています。

【柏の木の特徴】
  • 柏の木が「子孫繁栄」の縁起の良い木と考えられていた
  • 柏が神聖な木と考えられ、柏の葉が古代から神事の食器として利用されてきた

「こどもの日」に柏餅を食べる意味

神聖な柏の葉を用いた菓子を食べることで子供の健やかな成長を願い、家系存続の縁起物である柏の木のように「子孫繁栄」を願うという奥深い意味が、「こどもの日」に柏餅を食べる風習の中に込められています。


柏餅に使われる葉


柏餅は包む葉により名前も異なることの説明画像
柏餅に使われる葉は、名前からカシワの葉だけと思いがちですが、大正末期から昭和初期にかけて全国の柏餅型の節句餅を調べたところ、17種類の植物の葉が柏餅に使われていたそうです。

最も多かったのがサルトリイバラ(別名:山帰来(さんきらい))の葉で、次に多かったのがカシワの葉、その他にホオノキ、ミョウガ、ナラガシワ、コナラなどの葉も、柏餅に利用されていました。

主に西日本ではサルトリイバラ、関東を中心とする東日本ではカシワが多かったようです。

「端午の節句」に柏餅を供える風習は、江戸時代に参勤交代などで全国に伝わりました。しかし、柏餅が伝わる以前から、葉で包む餅が既に存在している地域も多く、カシワの自生が少ない地域では、カシワの葉を使う柏餅が定着しませんでした。

カシワの自生が少ない近畿圏以西では、サルトリイバラの葉が柏餅に使われることが多く、その場合には、名前も「柏餅」の他に、「しばもち」、「かからだご」、「おまき」、「だんご」、「いばらもち」「いびつもち」など地方ごとに特色のある名前が付いています。

サルトリイバラの葉を使った柏餅の一種「しば餅」の画像
西日本を中心とした広い地域で、サルトリイバラの葉が多く利用されたのは、サルトリイバラが里山に自生する身近な植物であったことや、肉厚の葉が餅を包むのに適切であったこと、葉の香りの良いことなどがあげられます。

また、サルトリイバラをカシワと呼んでいる地域もあり、サルトリイバラの葉で包んだ餅を柏餅と呼んでる地域(山口県、島根県、鳥取県、滋賀県など)もあります(参考:日本の食生活全集)。

そして江戸の武家社会で始まったとされる柏餅の原型は、このサルトリイバラを使用した餅だったのではないかという説もあります。

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古くから、端午の節句の行事菓子は、主に東日本では柏餅、西日本では(ちまき)といわれてきましたが、それはカシワの自生が少ない西日本で柏餅が定着しなかったためと考えられます。

そのため1930年代頃までは柏餅は関東が中心で、他の地域ではあまり見られませんでした。その後、韓国や中国から安価なカシワの葉が輸入されたことによって柏餅は全国的に人気となっていきます。

ところで、柏餅の葉っぱって食べられるの?

柏餅を食べる時に、葉っぱも一緒に食べられるかどうかを、老舗の和菓子屋さんに尋ねてみたところ、柏餅の葉っぱは、あくまでも食べる時に手が汚れないためのものなので、葉っぱは食べないほうが良いとのことでした。

それに対して「ひな祭り」に供える桜餅は、葉が柔らかいので葉っぱごと食べてもOK だそうです。ちなみに、「ひな祭り」に供える桜餅は、この柏餅から思いついたものです。

まとめ

こどもの日の柏餅の由来と意味のまとめ
こどもの日(端午の節句)に柏餅を供える風習は、江戸時代の武家社会が始まりといわれます。

武家にとって家系存続のために跡継ぎを絶やさないことが重要であったため、家を継ぐのは男子なので、男子の節句である端午の節句は、武家で特に尊重されました。

日本には葉で包む餅は古くからありましたが、端午の節句に柏餅が登場した理由は、「柏の木が冬になって葉が枯れても、翌年新芽が出るまで葉が落ちない」ことから子孫繁栄の象徴として縁起が良いとされたからです。

そして、昔から神が宿る神聖な木と考えられた柏の葉を用いた菓子を供えることで子供の健やかな成長を願い、柏の木のように「子孫繁栄」を願うという意味が、「こどもの日」に柏餅を食べる風習に込められています。

「端午の節句」に柏餅を食べる風習は、江戸時代から現在まで脈々と受け継がれてきましたが、柏餅に込められた「親の子への想い」は、いつの時代も変わらないものなのでしょうね。




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